Canadian Wood

Wednesday, January 31, 2007

ブログの変更

http://blog.livedoor.jp/hattori0819/?blog_id=2158350

申し訳ないですが、またもや、ブログをかえます。海外のブログを使用していると日本ではいろいろ厄介です。またもや、seesaaをつかってもよいですが、ここは気分を変えて違うブログをつかっています。いつものように散文ですが、暇があれば覗いてみてください。

Tuesday, January 09, 2007

「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まり

なかなか、面白い文章をよみました。お試しあれ。

興味深い記事を読んだ。
12月18日毎日新聞夕刊に東大で行われた学生実態調査の報告についての短信である。
学部学生3534人(回答者は1367人)対象のアンケートで「自分はニートやフリーターになるように思う」と答えた学生が7.4%、「ニートにはならないが、フリーターになるかもしれない」と答えた学生が20.9%。
あわせて28.3%の東大生がいずれニートかフリーターになる可能性を感じている。
この数値の経年変化にも興味があるところだが、記事では触れられていない。
個人的予測を述べさせてもらえれば、数値はこの後も増え続けるだろうと思う。
東大生が就職にきわめて有利なポジションにいることはどなたでもご存じである。
だから、彼らがそれでも「ニートかフリーターになるかもしれない」と思っているのは、「就職できない」からではない。
新卒でちゃんと一流企業や官庁に就職はするのである。
オフィスにばりっとしたスーツを着て通勤し、きびきびと働くであろうということは確実に予測されているのである。
でも、ある日、不意に仕事に行く気がしなくなり、通勤電車のいつもとは逆方向の車両に乗ってそのまま「海を見に行って」しまったり、朝だるくて起きられ ず、そのままずるずると休み続けているうちに会社に行く気分がなくなってしまう自分の姿が妙にリアルに想像されるのである。
どうして、「不意にやる気がなくなる」のか、その理由はわからない。
でも、「不意にやる気がなくなる自分」には鮮やかなリアリティが感じられる。
たぶん、そういうことではないかと思う。
だから「ニートかフリーターになるかもしれない」という不安を彼らは払拭できないのである。
私はこの「不安」は構造的なものであると考えている。
ニート・フリーター問題についての本を書いたが、その中で「労働は憲法に定められた国民の義務だから働け」ということを書いた。
たぶん、若い読者のほとんどはその意味がわからないだろう。
「ふざけたことを言うな」と激怒する人もいるかも知れない。
「働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、アンフェアな社会構造のもたらす問題である」というのがニート・フリーター問題における「政治的に正しい」回答である。
申し訳ないけれど、私はこの考え方の「働きたいけれど」という部分に実は留保を加えている。
働きたいのになかなか仕事に就けない若者は「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」働きたいという条件に呪縛されているからである。
残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない。
99%の就労者は「自分に向かない仕事、適性や能力を生かせない仕事、創造性のない仕事、見栄えの悪い仕事、賃金の安い仕事」のどれかまたはすべての条件を満たす仕事を選択しなければならない。
だから、彼らがある日ふと「もう会社行きたくないな」と思ってしまうのは当たり前田のクラッカーなのである。
仕事を彼らは「自己表現」のようなものだと考えている。
だから、気むずかしい芸術家が途中まで仕上げたキャンバスを「こんなものは私の作品じゃない」といってばりばりと引き裂くように、「こんなものは私の仕事じゃない」といって蹴飛ばすことが当然だろうと信じてしまうのである。
なるほど、労働が自己表現であるならば、そのようなふるまいはたいへんつきづきしいものである。
しかし、残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。
とりあえず労働は義務である。
現に、「すべて国民は、すぐれた芸術作品を創造する権利を有し義務を負う」という規定は日本国憲法のどこにもないが、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」ということは憲法27条に明記してある。
労働は国民の義務なのである。
「条件が揃っていれば働いてもいい」というような贅沢を言える筋の話ではないのである。
「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。
なぜなら、人間はなぜ労働するのかということの意味それ自体が労働を通じてしか理解されないからである。
これについてはヘーゲルの理説を引くのが捷径であろう。
「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけである。人間自身が現実に、客観的に自然的存在者以上のものであり、それ と異なったものであるのは人為的対象を作り出した後であり、人間が自己の人間的かつ主観的な実在性を真に自覚するのは、ただこの実在する客観的な所産にお いてである。(・・・)労働することによって人間は精神を『体現』し、歴史的な『世界』となり、『客観化された』歴史となるのである。」(アレクサンド ル・コヴェーヴ、『ヘーゲル読解入門』)
別にむずかしい話ではない。
小説を書かない作家、音楽を演奏しない音楽家というのが論理矛盾であることは誰にでもわかる。
「いいから、まずなんか書いて見せてよ」とあなただって言うだろう。
「それを読んで、どの程度の作家だか判定するから」
労働だってその点では同じである。
「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。
「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」
人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。
能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見されるのである。
それに、自己表現としての芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。
だって、芸術の場合は「他人と同じこと」をしたら、それがどれほど高度の技術や熟練や努力の成果であったとしても「無価値」と判定されるからだ。
でも、労働の場合は「他人と同じこと」をしても、それが客観的に有用なものを生み出している限り、高い評価を得ることができる。
麻雀の用語を用いていうなばら、芸術は「アタマハネ」であるが、労働は「ダブロンあり」なのである。
労働は達成感を容易に得ることができる。
芸術はそれに比してはるかに要求が苛烈である。
そして、まことに不思議なことに、今の若い人々は労働を「義務」だと考えることを忌避し、それがまるで自ら進んで自己実現のために行う「創造」でなければならないと信じ込んでいるようなのである。
それではたしかに、ご本人にとっては苦しいことであろう。
「義務」を果たしている人に周囲は優しい(いやなことに耐えているわけだから)。
「創造」に苦悩している人に周囲は冷たい(頼まれてもいないことに血道を上げているわけだから)。
久しく労働は(主観的には楽しくても、制度的には)義務であり苦役であった。
しかし今、労働は創造となった。
そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事をつうじて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
苛酷な条件である。
絶えず創造し続け、絶えず快楽にうちふるえていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら・・・」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむに足りない。
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。
東大生たちはあるいは「創造的労働者であること」「余人を以て代え難い唯一無二の労働者であること」により強い動機づけをなされているのかも知れない。
そうだとすれば、彼ら自身が不安に思っているように、遠からず東大卒がニートやフリーターになる可能性は予測される30%に限りなく接近することになるだろう。

Saturday, January 06, 2007

「自分のしたいこと」に答える

さて、皆さん。僕からの大きな質問です。

「自分がいったい何をしたいのか」

こういった大きな疑問を持ったことはないでしょうか。皆さんが、20歳以上でしたらきっと一度くらいは考えたことがあるはずです。そして、もし考えたことがあるとすれば、その問題の大きさに気づいているはずですね。

今日は、こんな大きな疑問について僕が感じることを率直に書いてみようと思います。僕自身かなり未熟であることは認めざるを得ないですが、きっとちょっとしたヒントは転がっているに違いありません。皆さんにとって、ちょっとでも役立てば、と感じています。

さて、前回の日記では、僕とMという女性との会話をかなり率直に書きました。彼女はすでにNYに帰ってしまいましたが、彼女との出会い、会話は今の僕の中にも生き生きと残っています。(そして、彼女が帰ってしまったことが僕には悲しくて悲しくて仕方がない。)

ちょっと僕が自慢できることがあるとすれば、彼女に、「こんなに私自身のことを話したのは久しぶりね」と言わせたことです。こういった一言に、僕自身のコミュニケーション能力が伸びていることを実感でき、日々の生活が充実してきます。もちろん、僕が未熟であることはいうまでもありませんがね。

前回の日記にも書いたとおり、彼女は、僕に、「僕がやらなければならないこと、あるいは、やりたいことをみつけなければいけない」と残して、カナダを去りました。僕にとっては大きな宿題です。

ただ、この宿題に答える前にこういいたいのです。

「本当にこの質問に答える必要があるの?」

このような質問は問うてしかるべきです。なぜなら、僕らは、「答えられない質問をつくりがち」だからです。

たとえば、「青色は甘いの?」といった質問。これは、まったく答えられませんよね。こういう問題を「不良設定問題」といいます。つまり、質問自体が意味を成していない。こういう問題には答える必要もなければ、考える必要もないのです。そして、大切なことは僕らはこのような質問を自分自身で作り出し、考えがちなのです。

それでは、Mさんが僕に問うたことは不良設定問題ではないのだろうか。これは、かなりきわどいところがありそうです。

そもそも、僕個人の意見をいえば、日本、あるいは、アジアという国には、かなり「心地よいルール」が存在している。そして、その「ルール」にさえしたがっておけば、たいした主体的な決断をしなくても、割と良い決断ができるのです(ポイント、ポイントで主体的な決断は必要だけれども)。僕はそう思います。

それでは「心地よいルール」とは何か。

たとえば、日本人でいえば、まず高校に入り、成績がそこそこなら大体は大学に入る。仮に東京大学の法学部に「幸運にも」あなたが入れるとすれば、それは官僚になるか弁護士になれば、いいのですよね。多くの人がそう選択するのです。自然にそういう結論にたどり着き、そういう決断をする。

もしあなたが不幸にも慶応大学に入ってしまったらw(これを読んでいる30%以上は慶応関係者である可能性が高い)、商社に入るなり、銀行に入ればいい。あるいは大手メーカー。公認会計士あたりをとっておくのもよいでしょう。こういう無難な選択をしておけば、大体40歳くらいで年収が1000万円に乗るはずです(少なくとも彼らはそう信じているはず。僕も信じているふしがある)。そして、これだけの資金は、あなたの家族をきっと十分に養っていけるにたる資金なのだと思います。

僕は慶応と一橋しかしらないので、ほかの人はわかりませんが、僕が言いたいことは、僕らは日本人として生まれてきて、あるいは、日本人として20年以上生きてきて、なんとなくわかっているはずです。「あなたが日本という国で何をすべきか」ということを。そして、同時にわかっているはずなのですね。そのレールから外れるということが、いったいあなたにどういうことをもたらすのか、ということを。(もちろん、そういう道を選んでも良いけれども、それは才能を要するし、かなりの覚悟がいることは皆さんにもわかっているはずです)

これらに対するプレッシャーの強さを、はっきりいうと、男性は圧倒的に感じます。女性は極端な話、「ニートでもいいや」とでもいえますが、男性はそうはいきません。野郎は稼がないといけないのです。そして、大切なことは、こういったことでさえ僕らは「なんとなく」わかっているのですね。(MSN統計では、80%近くの女性は、「お金のない男」とは結婚できないそうです)

僕らの周りは、こういう「なんとないルール」であふれています。僕らは、東京大学に入れば、得になることはわかっているはずです。英語が話せれば得なこともわかっている。弁護士資格があれば得なこともわかっている。医者になれば、女にモテルこともわかっているのです(これは世界的にあてはまるけど。医者は常にモテルのです)。

こういった得になる事実から、僕らの能力と相談しながら、「なんとなく」選んでいけばよい。そうすれば、日本という良い環境の中では、わりと「よい」仕事が見つかって、生きていかれる。大切なことは、僕らはきっと、そういった中で、「幸せ」をつむぎ出せていけるのです。すくなくとも、つむぎ出してこられたはずです。

なんか、身もふたもない話をしたうえに、おもいっきりステレオタイプを押し付けて申し訳ないのですが、あなたが周りを見渡すとすれば、割とあたっているんじゃないでしょうか。幸か不幸か、僕の周りだけに関していえば、かなりの確率であたっているといってもよいでしょう。

これに対して、西洋はおもいっきり、個人主義です。もっといえば、「自分が何のために生まれてきたのか」といったような質問を真剣に小さいころから考える。そういう土俵があるのです。

そもそも、日本人の多くは無宗教です。これは革命的な事実で、ちょっと世界を見渡してみればぜんぜん違うことに気づくはずです。

たとえば、アメリカ人。彼らの85%は自分自身をキリスト教徒だと感じています。さらに40%はかなり熱心なキリスト教徒です。カナダでは、最低でも50%は自分自身をキリスト教徒だとみなしているはずです。イタリアなどは、かなりすごくて、公式では、100%がキリスト教徒です。イタリア人たるもの、キリスト教徒であるべきなのです。(あなたがキリスト教の悪口を言いたければ、この事実に覚悟をして、発言してください。僕には恐れ多くて、とてもとても、です)

もうちょっと具体的な例を出しましょう。たとえば、僕の家にいるカナダ人のマエラ(彼女は名前を出しても問題がないはず)。彼女は、11歳なのですが、彼女の授業には、宗教学があるのです。11歳の子供が宗教の勉強をするのです。(ちなみに彼女はフランス語で宗教学を受けるから、参っちゃうのです。彼女は、フランス語、スペイン語、英語を完璧に話します。もちろんアクセントなしで。11歳の少女がです。。)

彼らは、宗教と絡めながら、「自分がどうして生まれてきたのか」、「自分の生にどういった意味があるのか」といったことを真剣に考えざるを得ないのです。逆にいえば、これらの意味で、「不自由」であるともいえます。これらの価値観から逃れるのに、ものすごい努力を要するのです。

具体例を出しましょう。以前も話したように僕の英語の先生はゲイです。彼は今、43歳なのですが、彼は、この価値観から逃れるのに、30年以上も要したのです。しかも、この価値観から逃れるために、哲学で学士、神学で修士号をとる必要があったのです。2年間、神学に従事して、ようやく彼はこれらの価値観から解き放たれたのです。(念のためいっておくけれど、僕はストレートです)

下品な言い方ですが、彼らは単にオナニーをするだけで、めちゃくちゃ悩みます。マジで、地獄に落ちると思うのですよw 大切なのは、地獄というのは、「ちょっといって来よう!」ではすまないのですねw 地獄ってのは、本当に大変な場所なのです。

また一方で、これらの価値観のおかげで、彼らは時に極端になります。人間の歴史で何が最も人を殺したのか、といえば、それは簡単で、要は「宗教」なのです。クラウデヴィッツの「戦争論」というのは、そういう文脈で理解すべきなのです。中世では、宗教を絡めて戦争を始めたため、国の人口が半分とか、3分の1とかになっちゃっていたのです。「正義のため」とか、「悪のため」とかいう理由で、戦争を始めると、人間はかなり残酷になるのです。戦争に「宗教」を持ち込むと、それはそれは残虐になるから、戦争を外交の延長だと考えよう、という発想をしたところに「戦争論」の新しさがあるのですね。

それに比べて、僕らを見てください。それはそれは自由ですよ。そして、日々がそんなにつまらないか、というとそうでもないんじゃないでしょうか?

たとえば、単にバイトをしていたとしても、店長にほめられたとか。新しい友達ができたとか。新しい商品を売っただとか。バイトで新しい彼女、彼氏ができたとか。きっと僕らは、こういった流れの中で、なんとない幸せを見つけられていけるのです。いったい誰がどんな権限で、これらで見つけ出した「幸せ」が、「自分はこのためにうまれてきたんだ」という問いの答えからくる「幸せ」に劣っているといえるのでしょうか。いえるわけがないでしょう?

厄介なのは、今の世界は完全にグローバル化で、簡単に西洋の概念、あるいは、新しい概念が入ってくるから、僕らはそういった概念を日々浴びざるを得ないのです。そして、僕は、そういった概念のひとつに、「あなたが本当にしたいこと」という質問も入っていると思うのですね。そもそも、かなり質問自体が宗教じみているでしょう?

さて、今日の日記はここらで終わろうと思います。

皆さんにわかってもらいたいのは、僕はMさんが大好きなわけで、そんな大好きな彼女が問う質問にこれから答える気でいるわけです。ですから、基本的に、この宗教じみた問いに自分自身なりで答える気でいるわけです。

ただ、僕がいいたいことは、別にこんな質問に全員が答える必要も、義務もないかもしれない、ということです。僕自身、なんとなく、「答えるべきだ」という感覚をもってはいるのですが、その感覚を言葉にするほどの「確からしさ」を、まだ自分自身の中に見出してはいません。

そうはいいつつも、彼女はそんな問いに答えるためのヒントを数え切れないほど僕にくれたし、第一、僕の周りにいる友人、先輩がいろいろな形でヒントをくれる。ですから、どこか前向きな気持ちになっています。それは、この問題自体に意味があるということに加えて、僕自身が僕なりに答えられる、ということにおいてです。

さて、いつものようにまとまりがない形で、今日もこの文章を終えようと思います。皆さんはどう思われたでしょうか?