「自分のしたいこと」に答える
さて、皆さん。僕からの大きな質問です。
「自分がいったい何をしたいのか」
こういった大きな疑問を持ったことはないでしょうか。皆さんが、20歳以上でしたらきっと一度くらいは考えたことがあるはずです。そして、もし考えたことがあるとすれば、その問題の大きさに気づいているはずですね。
今日は、こんな大きな疑問について僕が感じることを率直に書いてみようと思います。僕自身かなり未熟であることは認めざるを得ないですが、きっとちょっとしたヒントは転がっているに違いありません。皆さんにとって、ちょっとでも役立てば、と感じています。
さて、前回の日記では、僕とMという女性との会話をかなり率直に書きました。彼女はすでにNYに帰ってしまいましたが、彼女との出会い、会話は今の僕の中にも生き生きと残っています。(そして、彼女が帰ってしまったことが僕には悲しくて悲しくて仕方がない。)
ちょっと僕が自慢できることがあるとすれば、彼女に、「こんなに私自身のことを話したのは久しぶりね」と言わせたことです。こういった一言に、僕自身のコミュニケーション能力が伸びていることを実感でき、日々の生活が充実してきます。もちろん、僕が未熟であることはいうまでもありませんがね。
前回の日記にも書いたとおり、彼女は、僕に、「僕がやらなければならないこと、あるいは、やりたいことをみつけなければいけない」と残して、カナダを去りました。僕にとっては大きな宿題です。
ただ、この宿題に答える前にこういいたいのです。
「本当にこの質問に答える必要があるの?」
このような質問は問うてしかるべきです。なぜなら、僕らは、「答えられない質問をつくりがち」だからです。
たとえば、「青色は甘いの?」といった質問。これは、まったく答えられませんよね。こういう問題を「不良設定問題」といいます。つまり、質問自体が意味を成していない。こういう問題には答える必要もなければ、考える必要もないのです。そして、大切なことは僕らはこのような質問を自分自身で作り出し、考えがちなのです。
それでは、Mさんが僕に問うたことは不良設定問題ではないのだろうか。これは、かなりきわどいところがありそうです。
そもそも、僕個人の意見をいえば、日本、あるいは、アジアという国には、かなり「心地よいルール」が存在している。そして、その「ルール」にさえしたがっておけば、たいした主体的な決断をしなくても、割と良い決断ができるのです(ポイント、ポイントで主体的な決断は必要だけれども)。僕はそう思います。
それでは「心地よいルール」とは何か。
たとえば、日本人でいえば、まず高校に入り、成績がそこそこなら大体は大学に入る。仮に東京大学の法学部に「幸運にも」あなたが入れるとすれば、それは官僚になるか弁護士になれば、いいのですよね。多くの人がそう選択するのです。自然にそういう結論にたどり着き、そういう決断をする。
もしあなたが不幸にも慶応大学に入ってしまったらw(これを読んでいる30%以上は慶応関係者である可能性が高い)、商社に入るなり、銀行に入ればいい。あるいは大手メーカー。公認会計士あたりをとっておくのもよいでしょう。こういう無難な選択をしておけば、大体40歳くらいで年収が1000万円に乗るはずです(少なくとも彼らはそう信じているはず。僕も信じているふしがある)。そして、これだけの資金は、あなたの家族をきっと十分に養っていけるにたる資金なのだと思います。
僕は慶応と一橋しかしらないので、ほかの人はわかりませんが、僕が言いたいことは、僕らは日本人として生まれてきて、あるいは、日本人として20年以上生きてきて、なんとなくわかっているはずです。「あなたが日本という国で何をすべきか」ということを。そして、同時にわかっているはずなのですね。そのレールから外れるということが、いったいあなたにどういうことをもたらすのか、ということを。(もちろん、そういう道を選んでも良いけれども、それは才能を要するし、かなりの覚悟がいることは皆さんにもわかっているはずです)
これらに対するプレッシャーの強さを、はっきりいうと、男性は圧倒的に感じます。女性は極端な話、「ニートでもいいや」とでもいえますが、男性はそうはいきません。野郎は稼がないといけないのです。そして、大切なことは、こういったことでさえ僕らは「なんとなく」わかっているのですね。(MSN統計では、80%近くの女性は、「お金のない男」とは結婚できないそうです)
僕らの周りは、こういう「なんとないルール」であふれています。僕らは、東京大学に入れば、得になることはわかっているはずです。英語が話せれば得なこともわかっている。弁護士資格があれば得なこともわかっている。医者になれば、女にモテルこともわかっているのです(これは世界的にあてはまるけど。医者は常にモテルのです)。
こういった得になる事実から、僕らの能力と相談しながら、「なんとなく」選んでいけばよい。そうすれば、日本という良い環境の中では、わりと「よい」仕事が見つかって、生きていかれる。大切なことは、僕らはきっと、そういった中で、「幸せ」をつむぎ出せていけるのです。すくなくとも、つむぎ出してこられたはずです。
なんか、身もふたもない話をしたうえに、おもいっきりステレオタイプを押し付けて申し訳ないのですが、あなたが周りを見渡すとすれば、割とあたっているんじゃないでしょうか。幸か不幸か、僕の周りだけに関していえば、かなりの確率であたっているといってもよいでしょう。
これに対して、西洋はおもいっきり、個人主義です。もっといえば、「自分が何のために生まれてきたのか」といったような質問を真剣に小さいころから考える。そういう土俵があるのです。
そもそも、日本人の多くは無宗教です。これは革命的な事実で、ちょっと世界を見渡してみればぜんぜん違うことに気づくはずです。
たとえば、アメリカ人。彼らの85%は自分自身をキリスト教徒だと感じています。さらに40%はかなり熱心なキリスト教徒です。カナダでは、最低でも50%は自分自身をキリスト教徒だとみなしているはずです。イタリアなどは、かなりすごくて、公式では、100%がキリスト教徒です。イタリア人たるもの、キリスト教徒であるべきなのです。(あなたがキリスト教の悪口を言いたければ、この事実に覚悟をして、発言してください。僕には恐れ多くて、とてもとても、です)
もうちょっと具体的な例を出しましょう。たとえば、僕の家にいるカナダ人のマエラ(彼女は名前を出しても問題がないはず)。彼女は、11歳なのですが、彼女の授業には、宗教学があるのです。11歳の子供が宗教の勉強をするのです。(ちなみに彼女はフランス語で宗教学を受けるから、参っちゃうのです。彼女は、フランス語、スペイン語、英語を完璧に話します。もちろんアクセントなしで。11歳の少女がです。。)
彼らは、宗教と絡めながら、「自分がどうして生まれてきたのか」、「自分の生にどういった意味があるのか」といったことを真剣に考えざるを得ないのです。逆にいえば、これらの意味で、「不自由」であるともいえます。これらの価値観から逃れるのに、ものすごい努力を要するのです。
具体例を出しましょう。以前も話したように僕の英語の先生はゲイです。彼は今、43歳なのですが、彼は、この価値観から逃れるのに、30年以上も要したのです。しかも、この価値観から逃れるために、哲学で学士、神学で修士号をとる必要があったのです。2年間、神学に従事して、ようやく彼はこれらの価値観から解き放たれたのです。(念のためいっておくけれど、僕はストレートです)
下品な言い方ですが、彼らは単にオナニーをするだけで、めちゃくちゃ悩みます。マジで、地獄に落ちると思うのですよw 大切なのは、地獄というのは、「ちょっといって来よう!」ではすまないのですねw 地獄ってのは、本当に大変な場所なのです。
また一方で、これらの価値観のおかげで、彼らは時に極端になります。人間の歴史で何が最も人を殺したのか、といえば、それは簡単で、要は「宗教」なのです。クラウデヴィッツの「戦争論」というのは、そういう文脈で理解すべきなのです。中世では、宗教を絡めて戦争を始めたため、国の人口が半分とか、3分の1とかになっちゃっていたのです。「正義のため」とか、「悪のため」とかいう理由で、戦争を始めると、人間はかなり残酷になるのです。戦争に「宗教」を持ち込むと、それはそれは残虐になるから、戦争を外交の延長だと考えよう、という発想をしたところに「戦争論」の新しさがあるのですね。
それに比べて、僕らを見てください。それはそれは自由ですよ。そして、日々がそんなにつまらないか、というとそうでもないんじゃないでしょうか?
たとえば、単にバイトをしていたとしても、店長にほめられたとか。新しい友達ができたとか。新しい商品を売っただとか。バイトで新しい彼女、彼氏ができたとか。きっと僕らは、こういった流れの中で、なんとない幸せを見つけられていけるのです。いったい誰がどんな権限で、これらで見つけ出した「幸せ」が、「自分はこのためにうまれてきたんだ」という問いの答えからくる「幸せ」に劣っているといえるのでしょうか。いえるわけがないでしょう?
厄介なのは、今の世界は完全にグローバル化で、簡単に西洋の概念、あるいは、新しい概念が入ってくるから、僕らはそういった概念を日々浴びざるを得ないのです。そして、僕は、そういった概念のひとつに、「あなたが本当にしたいこと」という質問も入っていると思うのですね。そもそも、かなり質問自体が宗教じみているでしょう?
さて、今日の日記はここらで終わろうと思います。
皆さんにわかってもらいたいのは、僕はMさんが大好きなわけで、そんな大好きな彼女が問う質問にこれから答える気でいるわけです。ですから、基本的に、この宗教じみた問いに自分自身なりで答える気でいるわけです。
ただ、僕がいいたいことは、別にこんな質問に全員が答える必要も、義務もないかもしれない、ということです。僕自身、なんとなく、「答えるべきだ」という感覚をもってはいるのですが、その感覚を言葉にするほどの「確からしさ」を、まだ自分自身の中に見出してはいません。
そうはいいつつも、彼女はそんな問いに答えるためのヒントを数え切れないほど僕にくれたし、第一、僕の周りにいる友人、先輩がいろいろな形でヒントをくれる。ですから、どこか前向きな気持ちになっています。それは、この問題自体に意味があるということに加えて、僕自身が僕なりに答えられる、ということにおいてです。
さて、いつものようにまとまりがない形で、今日もこの文章を終えようと思います。皆さんはどう思われたでしょうか?
「自分がいったい何をしたいのか」
こういった大きな疑問を持ったことはないでしょうか。皆さんが、20歳以上でしたらきっと一度くらいは考えたことがあるはずです。そして、もし考えたことがあるとすれば、その問題の大きさに気づいているはずですね。
今日は、こんな大きな疑問について僕が感じることを率直に書いてみようと思います。僕自身かなり未熟であることは認めざるを得ないですが、きっとちょっとしたヒントは転がっているに違いありません。皆さんにとって、ちょっとでも役立てば、と感じています。
さて、前回の日記では、僕とMという女性との会話をかなり率直に書きました。彼女はすでにNYに帰ってしまいましたが、彼女との出会い、会話は今の僕の中にも生き生きと残っています。(そして、彼女が帰ってしまったことが僕には悲しくて悲しくて仕方がない。)
ちょっと僕が自慢できることがあるとすれば、彼女に、「こんなに私自身のことを話したのは久しぶりね」と言わせたことです。こういった一言に、僕自身のコミュニケーション能力が伸びていることを実感でき、日々の生活が充実してきます。もちろん、僕が未熟であることはいうまでもありませんがね。
前回の日記にも書いたとおり、彼女は、僕に、「僕がやらなければならないこと、あるいは、やりたいことをみつけなければいけない」と残して、カナダを去りました。僕にとっては大きな宿題です。
ただ、この宿題に答える前にこういいたいのです。
「本当にこの質問に答える必要があるの?」
このような質問は問うてしかるべきです。なぜなら、僕らは、「答えられない質問をつくりがち」だからです。
たとえば、「青色は甘いの?」といった質問。これは、まったく答えられませんよね。こういう問題を「不良設定問題」といいます。つまり、質問自体が意味を成していない。こういう問題には答える必要もなければ、考える必要もないのです。そして、大切なことは僕らはこのような質問を自分自身で作り出し、考えがちなのです。
それでは、Mさんが僕に問うたことは不良設定問題ではないのだろうか。これは、かなりきわどいところがありそうです。
そもそも、僕個人の意見をいえば、日本、あるいは、アジアという国には、かなり「心地よいルール」が存在している。そして、その「ルール」にさえしたがっておけば、たいした主体的な決断をしなくても、割と良い決断ができるのです(ポイント、ポイントで主体的な決断は必要だけれども)。僕はそう思います。
それでは「心地よいルール」とは何か。
たとえば、日本人でいえば、まず高校に入り、成績がそこそこなら大体は大学に入る。仮に東京大学の法学部に「幸運にも」あなたが入れるとすれば、それは官僚になるか弁護士になれば、いいのですよね。多くの人がそう選択するのです。自然にそういう結論にたどり着き、そういう決断をする。
もしあなたが不幸にも慶応大学に入ってしまったらw(これを読んでいる30%以上は慶応関係者である可能性が高い)、商社に入るなり、銀行に入ればいい。あるいは大手メーカー。公認会計士あたりをとっておくのもよいでしょう。こういう無難な選択をしておけば、大体40歳くらいで年収が1000万円に乗るはずです(少なくとも彼らはそう信じているはず。僕も信じているふしがある)。そして、これだけの資金は、あなたの家族をきっと十分に養っていけるにたる資金なのだと思います。
僕は慶応と一橋しかしらないので、ほかの人はわかりませんが、僕が言いたいことは、僕らは日本人として生まれてきて、あるいは、日本人として20年以上生きてきて、なんとなくわかっているはずです。「あなたが日本という国で何をすべきか」ということを。そして、同時にわかっているはずなのですね。そのレールから外れるということが、いったいあなたにどういうことをもたらすのか、ということを。(もちろん、そういう道を選んでも良いけれども、それは才能を要するし、かなりの覚悟がいることは皆さんにもわかっているはずです)
これらに対するプレッシャーの強さを、はっきりいうと、男性は圧倒的に感じます。女性は極端な話、「ニートでもいいや」とでもいえますが、男性はそうはいきません。野郎は稼がないといけないのです。そして、大切なことは、こういったことでさえ僕らは「なんとなく」わかっているのですね。(MSN統計では、80%近くの女性は、「お金のない男」とは結婚できないそうです)
僕らの周りは、こういう「なんとないルール」であふれています。僕らは、東京大学に入れば、得になることはわかっているはずです。英語が話せれば得なこともわかっている。弁護士資格があれば得なこともわかっている。医者になれば、女にモテルこともわかっているのです(これは世界的にあてはまるけど。医者は常にモテルのです)。
こういった得になる事実から、僕らの能力と相談しながら、「なんとなく」選んでいけばよい。そうすれば、日本という良い環境の中では、わりと「よい」仕事が見つかって、生きていかれる。大切なことは、僕らはきっと、そういった中で、「幸せ」をつむぎ出せていけるのです。すくなくとも、つむぎ出してこられたはずです。
なんか、身もふたもない話をしたうえに、おもいっきりステレオタイプを押し付けて申し訳ないのですが、あなたが周りを見渡すとすれば、割とあたっているんじゃないでしょうか。幸か不幸か、僕の周りだけに関していえば、かなりの確率であたっているといってもよいでしょう。
これに対して、西洋はおもいっきり、個人主義です。もっといえば、「自分が何のために生まれてきたのか」といったような質問を真剣に小さいころから考える。そういう土俵があるのです。
そもそも、日本人の多くは無宗教です。これは革命的な事実で、ちょっと世界を見渡してみればぜんぜん違うことに気づくはずです。
たとえば、アメリカ人。彼らの85%は自分自身をキリスト教徒だと感じています。さらに40%はかなり熱心なキリスト教徒です。カナダでは、最低でも50%は自分自身をキリスト教徒だとみなしているはずです。イタリアなどは、かなりすごくて、公式では、100%がキリスト教徒です。イタリア人たるもの、キリスト教徒であるべきなのです。(あなたがキリスト教の悪口を言いたければ、この事実に覚悟をして、発言してください。僕には恐れ多くて、とてもとても、です)
もうちょっと具体的な例を出しましょう。たとえば、僕の家にいるカナダ人のマエラ(彼女は名前を出しても問題がないはず)。彼女は、11歳なのですが、彼女の授業には、宗教学があるのです。11歳の子供が宗教の勉強をするのです。(ちなみに彼女はフランス語で宗教学を受けるから、参っちゃうのです。彼女は、フランス語、スペイン語、英語を完璧に話します。もちろんアクセントなしで。11歳の少女がです。。)
彼らは、宗教と絡めながら、「自分がどうして生まれてきたのか」、「自分の生にどういった意味があるのか」といったことを真剣に考えざるを得ないのです。逆にいえば、これらの意味で、「不自由」であるともいえます。これらの価値観から逃れるのに、ものすごい努力を要するのです。
具体例を出しましょう。以前も話したように僕の英語の先生はゲイです。彼は今、43歳なのですが、彼は、この価値観から逃れるのに、30年以上も要したのです。しかも、この価値観から逃れるために、哲学で学士、神学で修士号をとる必要があったのです。2年間、神学に従事して、ようやく彼はこれらの価値観から解き放たれたのです。(念のためいっておくけれど、僕はストレートです)
下品な言い方ですが、彼らは単にオナニーをするだけで、めちゃくちゃ悩みます。マジで、地獄に落ちると思うのですよw 大切なのは、地獄というのは、「ちょっといって来よう!」ではすまないのですねw 地獄ってのは、本当に大変な場所なのです。
また一方で、これらの価値観のおかげで、彼らは時に極端になります。人間の歴史で何が最も人を殺したのか、といえば、それは簡単で、要は「宗教」なのです。クラウデヴィッツの「戦争論」というのは、そういう文脈で理解すべきなのです。中世では、宗教を絡めて戦争を始めたため、国の人口が半分とか、3分の1とかになっちゃっていたのです。「正義のため」とか、「悪のため」とかいう理由で、戦争を始めると、人間はかなり残酷になるのです。戦争に「宗教」を持ち込むと、それはそれは残虐になるから、戦争を外交の延長だと考えよう、という発想をしたところに「戦争論」の新しさがあるのですね。
それに比べて、僕らを見てください。それはそれは自由ですよ。そして、日々がそんなにつまらないか、というとそうでもないんじゃないでしょうか?
たとえば、単にバイトをしていたとしても、店長にほめられたとか。新しい友達ができたとか。新しい商品を売っただとか。バイトで新しい彼女、彼氏ができたとか。きっと僕らは、こういった流れの中で、なんとない幸せを見つけられていけるのです。いったい誰がどんな権限で、これらで見つけ出した「幸せ」が、「自分はこのためにうまれてきたんだ」という問いの答えからくる「幸せ」に劣っているといえるのでしょうか。いえるわけがないでしょう?
厄介なのは、今の世界は完全にグローバル化で、簡単に西洋の概念、あるいは、新しい概念が入ってくるから、僕らはそういった概念を日々浴びざるを得ないのです。そして、僕は、そういった概念のひとつに、「あなたが本当にしたいこと」という質問も入っていると思うのですね。そもそも、かなり質問自体が宗教じみているでしょう?
さて、今日の日記はここらで終わろうと思います。
皆さんにわかってもらいたいのは、僕はMさんが大好きなわけで、そんな大好きな彼女が問う質問にこれから答える気でいるわけです。ですから、基本的に、この宗教じみた問いに自分自身なりで答える気でいるわけです。
ただ、僕がいいたいことは、別にこんな質問に全員が答える必要も、義務もないかもしれない、ということです。僕自身、なんとなく、「答えるべきだ」という感覚をもってはいるのですが、その感覚を言葉にするほどの「確からしさ」を、まだ自分自身の中に見出してはいません。
そうはいいつつも、彼女はそんな問いに答えるためのヒントを数え切れないほど僕にくれたし、第一、僕の周りにいる友人、先輩がいろいろな形でヒントをくれる。ですから、どこか前向きな気持ちになっています。それは、この問題自体に意味があるということに加えて、僕自身が僕なりに答えられる、ということにおいてです。
さて、いつものようにまとまりがない形で、今日もこの文章を終えようと思います。皆さんはどう思われたでしょうか?

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