Canadian Wood

Tuesday, November 07, 2006

映画「American History X」 ~差別について3~

さて、今日も日本語で書きましょう。最近、週5本ペースで映画を見ているので、感想をどうしても書きたくなります。「入り口があれば、出口がなければならない」とはよく言ったもので、本当に吐き出し先が必要です。

昨日、「American History X」を見ました。テーマは「差別」(差別というと、枠を縮めすぎているかも)。「差別」というテーマは、繰り返されているので、そう簡単に人を感動させることはできません。「Crash」がいい例で、あれくらいじゃ、感動しませんよ。手法が凝っていましたが、「そりゃ、マグノイアと同じだぜ」とも思いました。あの映画はカット割が美しいため、そういった点で楽しむべきだといえそうです。(あと、「Crash」を、「差別」という点以外で見れば、なかなか面白いかも。)

ともかく、繰り返し描かれる「差別」ですが、「American History X」。こりゃ、やられました。一日に二回、みてしまった。「The believer 」を見たときも、「Bulworth」をみたときも、かなり感動したわけですが、この映画はそれを超えているような印象を持ちました。

筋をざっと追いましょう。テーマはネオナチと差別です。ある男は、ネオナチに心酔しています。よって、差別主義者。ホワイトはすばらしいと思っています。彼は、複数の黒人を殺したため、刑務所に行くことになります。ただ、この刑務所の中で、彼はネオナチから脱するのです。

この映画のすばらしいところは、「なんで彼がネオナチから脱したのか」というところを描こうとしているところです。「なんで差別していけないの?」という簡単に人はなかなか答えることはできません。逆に僕はあなたにこう聞きたいです。

「なぜあなたは人種差別をしないのですか?あるいは、人種差別をする人を嫌うのですか?」

仮にあなたが僕にそのように問うとすれば、僕はこう答えたいです。「なぜなら、僕は差別ができないから」(これは、僕が「差別をしない」のではなく、僕が「差別をできない」とすれば、そういった理由に違いない、ということ)。完全にトートロジーですが、そのように答えるしかない。僕はそうしか答えられないと思います。

じゃあ、なんで僕は差別ができないのか?この映画のすばらしいところは、差別というものの本質、あるいは、差別という難題の解決策を、そういった道に託しているからです。

http://www.youtube.com/watch?v=_QAzwqCboDs

このシーンを見てください。ホワイトのスキンヘッドは例のネオナチの男です(ネオナチは、スキンヘッドになる)。彼は、牢獄にいて、単純労働を強いられます。彼は体にでっかいナチスのマークの刺青があるため、彼がシャワーを浴びるときなどに、彼がネオナチであることがばれてしまいます。牢獄には、黒人が多いため、当然、黒人も彼がネオナチであることを認識する。つまり、彼らは、彼が黒人を差別していることを認識できるのです。

このシーンは、ネオナチの男と黒人の男の会話です。ネオナチの男は差別主義者ですから、黒人とは話しません。ずーと無視をし続けます。ただ、この黒人。彼にずっと話しかけるのです。彼はいろいろ話してみます。けれどもだめ。ただ、彼はその厚い扉をこじ開けるのですね。

どうこじ開けたかというと、要は、「下ネタ」w 英語が難しいから、わからない人もいるかもしれませんが、ようは、この黒人、このシーンで下ネタを言っているのです(なんとなくわかるでしょ?)。そして、ネオナチの男を笑わすことができるのです。

僕はこのシーンがこの映画で一番好きです。僕はこのシーンを見たときに、「だから僕は差別をできないんだ」と思いました。それは、論理を超えています。きっと僕が差別をできないとすれば、こういった理由から。そう思わせる「ストーリー」がこの映画にある。もっといえば、このシーンで泣ける人は、もしかしたら人種差別をしないかもしれない。そう思ったりもします。

たとえば、あなたがすごく嫌いな人と何か共通した物事をやらなければいけなかったとしましょう。あたなは、その人を心から嫌っています。しかし、彼(彼女)と協力しなければならない。

わかりやすくするために、もうちょっと具体性を出しましょう。たとえば、ピッチャーとキャッチャー。彼らは嫌いあっているとしますね。ピッチャーは、キャッチャーの指示が適切ではないと思っている。キャッチャーは、ピッチャーが自己中心的だと思っている。

ただ、彼らはわかりあえる「かもしれない」。それは、たとえば、普段はまったく協力しないバッテリーが、時に協力をして、強力なバッターを打ち取ったときかもしれない。そのときに、お互いの能力を少しは認め合ったのかもしれない。いずれにせよ、きっとそういった瞬間が、この世の中にはあるに「ちがいない」。

この映画が描こうとしてる瞬間は、そういったものです。そして、その瞬間は、あまりにまばゆく、「人種差別」という暗闇を照らすかもしれない。

もちろん、この映画が人種差別を解決するような具体的な方法を示しているわけではありません。世界には人種差別があるにもかかわらず、それを解決することを放棄し、その上で、自分は差別しない道を選ぶ。この映画が提示する世界観は、こういったものです。この点をついて、「弱い」といわれれば、「弱い」としか言いようがありません。

ただ、このようの中に、「差別がいけないんだ」と思う人が仮にいて、もし、その気持ちを表現したいとすれば、現時点ではこの映画が提示したような方法しか考えられない。僕はそう思います。

この映画の弱いところは、もう一点あります。それは、ネオナチとユダヤ人の関係をまったく描いていないということですね。ネオナチという設定を単に「人種差別」という点だけで議論をしてしまっている。その点では、「The Believer」のほうが作品として優れていると言えそうです。

ただ、「The believer」ではあいまいにしか描かれていなかった、「なぜ僕は差別をしないのか」という点をおもいきって議論している点を僕は評価したいし、僕は、この作品を作った人に強い共感を覚えました。どう思われるでしょうか?ともかく、この映画を見ていない人に強く勧めたいと思います。

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